私はまったくの異形種から実家の会社に入りました。もちろん経営の勉強などしたこともありませんでした。なので、色々なセミナーに出たり本を読んだりしたのですが、経営の失敗談でよく出てくるのが、社長派と会長派に社内が割れ、親子の確執がそのまま会社を傾かせていくパターンでした。
それを見て、私は早い段階で一つの方針を決めました。「先代とは対立しない」。
今振り返ると、その方針そのものは間違っていなかったと思います。ただ、その方針の裏で、私は本当に大事な場面まで一緒に引いてしまっていたのではないか。今日はその話をします。
子供の頃の思い出
先代との関係を象徴する記憶があります。小学生の頃、ソフトボールのピッチャー練習で、先代が座ってキャッチャー役をしてくれたことがありました。
私はお世辞にも運動神経が良い方ではなく、投げるボールはヘロヘロで、コントロールもまるで定まりません。「これもダメ、ボール」。そう言われました。
たまにストライクが入って、心の中で「よし」と思う瞬間があります。そんな時、先代は言いました。
「あ~あ、これはホームランだ」
そう、ストライクに入っても褒め言葉にはならないのです。これは打たれるコースだと否定される。先代は楽しそうでした、そこは普通に親です。でも私はどこにどう投げれば良いのかわからなくなっていました。
経営を学ぶことすら否定される

入社して2年目の頃です。先代に勧められて、経営やマネジメントについて学べるカセットテープのシリーズを購入しました。ランチェスター戦略などが含まれた、当時としては本格的な教材です。
1つ目のシリーズを何度も聞き返し、頭に入ったなと思ったので次のシリーズを買ってもらうように提案しました。知りたいという純粋な欲望でした。しかしその時、先代からこう言われました。
「勉強ばかりしても仕方がない」
そこでストップです。子供の頃から「勉強しろ」とばかり言われて育ったのに、やめろと。当時はまだ先代を尊敬していましたし、「実践の方が先だ」という彼の考えにも一理あると思い、私は黙って従いました。まだ経営者の入口にすら立てていない。自分は何も知らない。そうは思っていたのですが。
くだらんことを考えるな
当時、自社の事業はまだ利益が出ていました。ただ、将来的にこの業界のニーズが先細りしていくことは、誰の目にも明らかでした。
先代にもそういう不安があったのか、私にいろいろなセミナーへの参加を勧めていました。学ばせてくれていたんです。
ある先進的なセミナーで得た情報から、まだ世の中にあまり広まっていない、これから伸びるだろうと思える分野を見つけました。私は先代に、この事業への展開を提案しました。
返ってきたのは、「くだらんことを考えるな」の一言です。目の前のことをしっかりやれと。それは分かりますが、何のためにセミナーに出されたのか?憤りと疑心暗鬼でいっぱいになりました。
その後、その業界がどうなったか。実際に大きく成長しました。あの時取り組んでいたとしても成功したかどうかは分かりませんが、やるべきだったかどうかは、もう答えが出ています。
二段階の撤退も愚策

先代がまだ社長だった頃、自ら手掛けて立ち上げた支店がありました。思い入れの強い支店です。最初は儲かっていたのですが、強豪が出てきてから、じわじわとジリ貧になっていきました。
効果の出ないテコ入れをだらだらと続け、気づけば年間500万円ほどの赤字支店になっていました。私は撤退を提案しました。
先代の返答は「家賃交渉をしろ」。撤退ではなく、別の対処を求められました。
大家はお役所的な相手で、家賃交渉には一切応じません。1年ほど引っ張ってから、私は再度撤退を提案しました。今度も「家賃は下がったのか?」と聞かれましたが下がっていないので、納得しません。この支店はどうしても撤退しないといけないと思っていたので、私は仕方なく「部分的に撤退する」という規模縮小案で決着させました。
しかし赤字はほとんど減らず、黒字化などあり得ない状態です。そこからさらに1年、だらだらと赤字を垂れ流しながら決算を経て、「ほらね、やっぱりダメでしょ?」という形で完全撤退に至りました。
工事は部分撤退と完全撤退の2回に分かれ、無駄な経費だけがかさみました。
後になって気づいたことがあります。私たちの会社は、それまで一度も「スクラップアンドビルド」のスクラップ、つまり撤退というものをしたことがありませんでした。先代にとって撤退は、単なる経営判断ではなく、「敗退」そのものに感じられていたのかもしれません。だからこそ、あれほど頑なだったのだと、今なら理解できます。
成果を出しても否定
社長になって数年後、先代の失策が原因で、得意先から取引を大幅に縮小されたことがありました。私は3年以上かけて取引先と根回しし、その一部を取り戻しました。取引先の部長さんも慎重に段階を踏むという判断でのことでした。
私はようやく結果が出たことを報告しましたが、先代は言いました。
「たったこれだけか?」
長い付き合いですから、その時はもう「やれやれ」という感覚しかありませんでした。人のモチベーションを刈り取る天才だな、と。
それでも私は続けました。そこからさらに1年後、取引を完全に取り戻しました。
その時の一言は、「遅い」でした。
「まったく、どなたの尻拭いをしているんでしたかねぇ?」と、言いませんでしたけどね。
さすがに押し通したこと

そんな私にも、一度だけ意見を押し通せたことがあります。
これも入社2年目、会社がまだ儲かっていた頃の話です。本社工場は、「自宅兼作業場」みたいなのを、そのまま大きくしたような工場でした。原料の入口と製品の出口が同じ場所にありました。モノの流れがごちゃごちゃです。私は「モノは一方向に流れないとダメだ」と主張しました。
クリンネスという意味でも酷いものでした。誰でも土足で出入りしていましたし、工場の女性はタバコを吸いながら作業をしていました。もうめちゃくちゃです。
先代は毎年工場の改装をちょこちょこやるのが好きでしたが、思いつきでやっていたので上手くはいっていませんでした。私は工場の壁をぶち抜く大改装を提案しました。
先代も最初は否定しました。しかし、誰が見ても恥ずかしい工場だったからこそ、最終的には押し通すことができました。改装後は流れがきれいな一方向になり、エリア分けもでき、衛生面も大きく改善しました。
今、この一件だけを振り返って気づくことがあります。ここには「信念」がありました。だから通せた。それ以外の場面で引いてしまったのは、先代のせいというより、私自身に信念、つまり「絶対にこうすべきだ」という確信がなかったからではないか。そう思えてなりません。
分かれ目は、対立ではなかった

こうして並べてみると、答えははっきりしています。先代とぶつかることを避けたのは、正しい判断だったと思います。実際、社内が二つに割れるようなことは一度もありませんでした。
しかし、それとは別に、私は自分に問わなければならないことがあります。マネジメントの勉強も、新業態の提案も、赤字支店の撤退も、本当に「対立を避けた」だけだったのか。それとも、自分の中に「これだけは絶対に譲れない」という信念が足りなかっただけなのではないか。
工場の動線という、誰にでもわかる明白な間違いには、私は確信を持って向き合えました。だから通せました。一方で、数字や将来性のような、目に見えにくい判断には、私自身、心のどこかで自信が持てていなかったのだと思います。
もし、あの時のいくつかで、もう少しだけ強く押し通していたら。今の結果は違っていたかもしれません。それは今でも、時々考えます。
最後に、ひとつだけ書いておきたいことがあります。
私が人生で先代に褒められたのは、後にも先にも、一度きりです。1年浪人した末に、まあまあ名の知れた大学に合格した時でした。手続きで東京に行った食事の席で、私に面と向かい、先代はこう言いました。
「おめでとう」

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