社長になる前、会社に入ってから引き継ぐまでの8年間、先代に勧められてさまざまなセミナーに通いました。人事評価の作り方、就業規則の整備、労務管理——一般的な会社経営の「普通」を学ぶ場でした。
ただ、当時の正直な感想は「そんなもの、必要なのか?」でした。会社はちょうど業績のピークで、儲けることに懸命になればいい、制度より実績だ、という気持ちがありました。セミナーの話は堅苦しく、どこか別の世界の話のように聞こえていました。
それでも、学んだことは頭の片隅に残っていました。
先代の時代、従業員に経営情報を伝えるという文化はほとんどありませんでした。というより、伝えるべき「まとまった情報」自体がなかった。どんぶり勘定で回っていた会社を引き継いだ私は、業績が悪化してきた頃に思い出したのです——あのセミナーで聞いた話を、実践してみよう、と。
人事評価を透明化して、就業規則を整備して、残業手当をきちんと計算するようにした。法的にも間違っていないし、学んだことを実践しただけです。でも今振り返ると、あれは正解だったのか、と思うことがあります。
セミナーで学んだ「モチベアップの方法」
賞与がカットされ、従業員のモチベーションが下がっていた時期のことです。あるセミナーで「人事評価の透明化が従業員のモチベーションを上げる」という話を聞きました。
なるほど、と思いました。客観的な評価と自己評価を照らし合わせ、年1回の面談も実施する。ちゃんとした制度があれば、従業員も納得して働いてくれるはずだ——そう信じて取り組みました。
3年間続けましたが結果は不評でした。
面談はお互いにとって面倒なだけ。給料がたいして変わるわけでもないのに、手間だけが増えた。ある従業員が直接「不評です」と伝えに来てくれたのは、ある意味ありがたかったですが、正直なところ「また社長が何か始めた……」という空気は感じていました。
3年やって、私もそれどころではなくなってきたので、諦めました。モチベーションが上がる効果は、最後まで感じられませんでした。
就業規則を開示したら、権利を主張された
社労士に相談したとき、就業規則を分かりやすく開示するべきだというアドバイスをもらいました。これも正しい話です。整備して、従業員に周知しました。
すると、それまで有給休暇なんて取ったことがなかった従業員が、取らないと損だからみたいな感覚で取得するようになりました。
残業手当もきちんと計算するようにしました。透明化したら、今度は私のケアレスミスを指摘されるようになりました。整備したことで、自分のミスが露わになる、という展開です。
権利は整備した。でも義務は?
法的には何も間違っていません。有給休暇は取得できる権利ですし、残業代はきちんと払うべきものです。ただ、冷静に考えると、私が整備したのは「従業員の権利」の部分だけでした。
義務の規定が甘かった。たとえば、目標を立てて、達成できなければ指導するというルール。言葉にすれば当たり前のことですが、そういう仕組みが会社になかったのです。
なぜ作れなかったのか。私自身に経験がなかったからです。会社員時代、私は成績で評価されるような職種ではありませんでした。結果で叱責されたことがない人間が、それを部下に課せるかというと——難しかったのだと思います。
先代は違いました。創業当初から共に働いてきた社員たちとの長い関係がありました。成績が悪ければ頭ごなしに叱ることもできた。それは長年積み上げた関係性があったからです。私は業界経験もなく、年下で入ってきた。そもそも叱れる立場になかったのです。
先代は「好き嫌い経営」だったけれど
先代は情報を公開しない、制度もない、好き嫌いで人を評価する、そういう経営者でした。私はそれが嫌でした。だから改めようとした。
でも先代の時代、会社は調子が良かった。制度がなくても、どんぶりでも、好き嫌いでも、業績が伴っていれば組織は回る。私が制度整備を始めた頃、すでに経営は厳しくなっていました。だからこそ、余計に裏目に出た面があったのかもしれません。
社員に近づくために始めたのに
制度を整備したのは、社員と近づきたかったからでもありました。透明な評価があれば、お互いを理解できると思っていた。
でも結果として、遠ざかりました。
今思うと、社員が求めていたのは制度ではなかった。声をかけてもらうこと、気にかけてもらうこと、そういう人間的なものだったのだと思います。それが苦手だったから、仕組みで解決しようとした。
「そういう事じゃないんだよな」——当時の従業員が心の中でそう思っていたとしても、否定できません。
正しいことをやりました。でも、それが会社のためになったかどうかは、今でも分かりません。
誤解のないように言うと、人事評価制度や就業規則そのものが悪いわけではありません。問題は、制度が人間関係や日々の関わり方まで補ってくれるわけではなかった、ということです。
正しいことが、正解とは限らない。これが22年間の経営で学んだことのひとつです。


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